幼少期
私、藤田陽一は横浜で生まれ育ち、ごく普通の子供で、横浜市立太田小学校に入学・卒業しました。
子供の頃は、運動・成績も普通。クラスでヒーローになるタイプでもなく、手先が器用な、図工だけが得意な子供でした。
さらに当時は病弱で、中耳炎を繰り返し、耳鼻科に通いづめの日々でした。実はこの頃の影響で、今でもやや耳が弱くなってしまっています。
しかし、病院通いが辛いという記憶がありません。なぜなら、そこの耳鼻科の先生がとても親切で、病院に通うことが楽しみなほどだったのです。
子供心に、 「大きくなったらこの先生みたいになりたい!」 と思いました。今思えば、これが私が歯科医師になるきっかけでした。もう会うことはできないですが、 この耳鼻科の先生は私の心の恩人となっています。
怖かった父親と、優しかった母親
私の父親は非常に厳しく、星一徹(巨人の星のスパルタの父親)のような人でした。とても教育熱心で、テストの点数が悪いと凄く怒られた記憶があります。そんなとても怖い父親でしたが、たまに遊びに連れて行ってもらったときだけは、優しい顔になり、私はその時の顔が大好きでした。
母親は、父親とは正反対で、とても優しく、父親に怒られている私をよくかばってくれていた記憶があります。また、中耳炎を繰り返している私をとても心配して、いつも病院に連れて行ってくれたことが印象に残っています。
私も父親となった今となっては、父親も私のことが可愛いが故の厳しさだったのだとしみじみ感じます。両親には、今でも心から感謝しています。。
転機が訪れた高校時代
幼少期には病弱だった私ですが、小学校時代にはすっかり健康になり、元気に遊び回っていました。そして、中学校・高校は横浜の山手にある聖光学院中学校・高等学校に進学しました。
実は、高校1年生の時には、テレビや小説に出てくる弁護士にあこがれて、
「弁護士になりたいなあ・・・」 と、漠然と思ったりしていました。
しかし、受験勉強を控え、本格的に進路を考え始めた高校2年生のことです。
身体が弱かった小さい頃に夢見た、医療関係の仕事への憧れを思い出したのです。
「やっぱり医者になって、多くの人を健康にしたい・・・!!!」
ただ、当時、あまり勉強もせず成績が良くなかった私は、
「自分にはきっと無理だ・・・」 とあきらめかけていました。
しかも、 医学部や歯学部に通うにはとてもお金がかかります。 普通のサラリーマン家庭でしたので、やはり諦めるしかないと思っていました。
しかしある時、私が医師になりたいという夢を持っていることを知った両親がこういってくれたのです。
「お前は昔から手先が器用だし、歯医者にでもなったらどうだ。学費はなんとかしてやる!」
この言葉を聞いたとき、心から感激しました。この時の父親は、誰よりも格好良く感じました。また、この時ほど父親に感謝したことはそれまでありませんでした。
それから私は、必死になって猛勉強をしました。 両親の期待、心意気を裏切りたくない、そしてなにより、幼い頃からの夢を叶えたい という思いでいっぱいになり、寝る間も惜しんで勉強しました。
そして、1年間の猛勉強の末、 第一志望であった歯学部へ合格 することができたのです。
合格を知り、「これで夢が叶う!」と感激したこと、そして、合格を知らせたときの両親のうれしそうな表情は今でも忘れることができません。
歯学部時代
大学入学後は、歯科医師になるための勉強や実習をこなしながら、大学から始めた硬式テニスに熱中して、勉強をしながら部活動にも全力で参加するという毎日が続きました。
今でも付き合いのある、多くの友人達と出会うことができ、非常に充実した大学時代でした。
そして、 いよいよ夢が叶う手前まで来ていることもあり、勉強にも身が入り、毎日が楽しくてしょうがなかった といった思い出があります
勤務医時代
そして、無事に大学を卒業し、国家試験にも無事に合格しました。 私の夢がついに叶った 瞬間でした。そして、歯科医師となったからには、腕がよく、信頼される歯科医師になろうと決心し、この頃は、ひたすら研究、診療、勉強の繰り返しで、受験生の頃に戻ったような、非常に忙しい日々を過ごしました。
私は、 自分の理想の医院を作るため、いつかは、自分で開業したい と思っていましたが、まだまだ多くの勉強をして、歯科医師としての知識や腕を磨く必要があると強く感じていた私は、ある開業医のところで勤めました。
治療する患者様の数は大学勤務時代の4倍になりましたが、この頃に歯科治療に対して大きな考えの変化がありました。それは、 「歯を単純に治療する」ということから、「患者様のお口を守り、悩みを解消する」という意識に変わった ことです。
また、この頃に、患者様とコミュニケーションをとることによる、心の交流が楽しくなってきました。忙しいなりに、とても充実感のある毎日でした。気が付いたら、10年という年月が流れていました。。